毒親VS奈緒&バカか・天然か⁉

毒親が私の幼少期から今までどんなことがあったのかを、赤裸々に綴っています。

新たな出会い

問題児ではあったが、お客さんの名前・顔・趣味・何が好きか・前回なんの話をしたかを
覚える事にはたけていた。

そんな中で毎日のように来ている集団がいた。
近くの会社に勤めている人たちだった。
初めの頃は着くことがなかったが、毎日となると着くようになっていった。

その席には、支店長・各部署の責任者・その下で働いている方々いた。
特段何をするわけでもなく自由に接客していた。
その中で支店長に気にいられ指名を貰うようになった。

毎回来るメンバーが変わったりしていた。
その中でいつも盛り上げながらも、気遣いもできている人がいた。
全くタイプではないがなぜか惹かれていくようになった。
たまに休みを貰っていた時も支店長から「飲んでるからこない?」と言われ
店外でも合うようになった。ただ惹かれている人がいる時に

離婚後の生活

キャバクラで働き、月に1週間は実家で娘を見てもらいながら生活をしていた。
親には「居酒屋で働いている」と言っていた。
田舎の考えなのか、私の親なのかはわからないが口が裂けても「キャバクラで働いている」とは
言えなかった。
偏見がすごかったからだ。

まだ遊び足りなかった私は、お店の女の子と朝までボーリングをしたり、娘を連れて飲みに行くこともあった。
お店のオーナーと付き合っていたが他の人とも遊んでいた。
オーナーにも他に女がいたからだ。

貯金もせず支払いの時期になるとその分だけ貯めて支払い、終わればまた遊びに使っていた。
好きなものも後先考えずに買っていた。
もちろん娘の物もだ。

こんなだらしのない生活で一児の母なんて誰が思うだろうか?
DVから娘を守ることができていても、教育上よくないことは分かっていた。
娘もおばあちゃんが大好きになり、私よりもおばあちゃんの方が好きだったに
違いない。
怒られることもなく、何でも欲しいものを買ってくれ、いろんなところに遊びに連れて行ってくれる。
娘にとって本当に幸せなのが何だったのかよくわからなかった。

離婚

引っ越した先の家は2階建ての貸家だった。

3DKの風呂・トイレ別・駐車場1台無料の家賃は5万だった。
娘と暮らすには十分すぎるほどの広さだった。

家があってもお金がなければ生活はできない。
元々キャバクラで働いていた事があり、また夜の世界に戻った。
託児所の制限があり毎日働きたくても働けないため、実家で月に1週間ほど預かってもらっていた。
私には厳しかった母親が孫にはとてもやさしくおもちゃも買い面倒を見てくれた。

その間に私は毎日仕事をすることができた。
しかしなぜか元夫は、私が働いている店を見つけ出し誕生日には店にケーキを送ってきた。
怖くてどうしようもなかったが、ボーイさんが守ってくれていたことが救いだった。
店がバレてしまったがボーイさんのおかげで同じ店で働ていくことが出来た。
お店の女の子たちとも仲良くなり、仕事が終わってから遊びに行くことや飲みに行くようにもなった。


中々離婚届を出すのにもう一度元夫に合うことが怖くてできないでいたが、
ボーイさんが「離婚しちゃえ」と言ったことから決心がつき離婚届を書いた。
しかし合う事には抵抗があり、犯罪だとわかっていたが元夫の書く欄に私が勝手に書き離婚届をだした。
文書偽造の犯罪なのはわかっていたが、もしまたDVを受けるくらいなら犯罪者になってもよかった。
無事に離婚届が受理され赤の他人に慣れた。

離婚のきっかけ

私は19歳で結婚をし21歳で長女を出産しました。
生活はお金の部分では苦労しませんでしたが、夫からの暴力には大変な思いをしました。
お酒が大好きで毎日飲み、ちょっとでも文句を言うと殴られるのが当たり前でした。
私の実家に泊まった時も「みんな寝るから片付けよう」というと顔を掴まれ口から血が出てしまいました。
それを母に言うと「文句を言うお前が悪い」と言われ助けてくれることはありませんでした。
それでも私は「子供のためには両親揃っていた方がいい」と思い我慢していました。


そんなある日また酔っぱらって帰ってくると何を血迷ったか、娘の頭を両手で持ち上げ振り回し始めました。
私は急いで娘を抱え車で逃げました。
幸いにも娘は何ともなく無事でした。夫は免停中だったため追いかけてくることはありませんでした。
夫が仕事に行くのを見計らい、娘と私の最低限の物を持ち出し一旦不本意ながら実家においてもらいました。
2か月くらい娘を幼稚園に預け、実家の近くでアルバイトをしていました。
夫と住んでいた家には友達にお願いをして、夫が出ていくのを待ちました。
なぜ出ていくとわかったかというと、他に女がいるのを知っていたからです。


夫がいなくなり家に娘と二人で戻り、大家さんにお願いをしてチェーンを付けてもらいました。


つけてもらってからすぐに大家さんから「アパートに作り替えたいから引っ越してほしい」ということで
夫から逃げるのにちょうどいいと思い引っ越しをした。
引っ越した住所はもちろん教えなかった。

兄の機転?

父は自営業で仕事をしていたためいろんな所から、営業の電話が来ていました。
父が死んでからも営業の電話が続きました。
死んだことを知らずに・・・

そんな時兄が電話を取り営業の方と話をしていました。

営業「お父様は御在宅でしょうか?」

兄「いえ。いません。」

営業「いつ頃お戻りになりますか?」

兄「お盆の頃に戻ります。」

営業「では、その頃にまた連絡させていただきます。」

兄「分かりました。」





はい!父は死んでしまいましたが、お盆の時には魂は帰ってきます。
決して兄は嘘をついてはいません。
間違ってもいません。
まるで父の様な感じでした。


きっと何も知らない営業の方はまた電話してくることでしょう。
ご愁傷さまです。

金縛り

父が死んでから数か月が過ぎ普通の生活に戻ってきていました。


そんな中娘と一緒に寝ているときに金縛りにあいました。
体が疲れているのに脳が起きてしまうという金縛り・・・

私の娘は決して寝相がいいとは言えません。
金縛りに合っている時に娘のぷにぷにしたほっぺが私の顔に乗っており、息が出来ません。
私の周りには知らない子供たちが歩いていました。
目を閉じていると夢を見始めました。
父がリュックにお菓子をたくさん入れて「一緒に行こう」と誘われ、私もお菓子をたくさん入れて父と一緒に
歩き始めました。
そんな時に目が覚めました。
金縛りのままで娘が私の顔の上に乗ったままでした。
息が出来なく苦しいのに体は動きません。
私は「娘に殺されるならいいや」と思い目を閉じました。
また父と一緒に歩き綺麗な山が見えてきました。
先に進もうとしたとき急に目が覚め、金縛りもなくなり息苦しさで娘をどかすことが出来ました。



次の日私は娘を連れて父のお墓に沢山のお菓子をお供えしてきました。
父は幼い頃戦後の影響と実の母が早々に亡くなり、後妻の子供とで差別されていました。
食べるものは生のさつまいもを食べていた事、野鳥を捕まえ食べていた事を知っていました。
学校にも行っておらず、漢字を書くこともできませんでした。


金縛りに合い父が夢に出てきたことを母にいうと「私のところには来ていないのに」と落ち込んだ様子でした。
死にそうになった私より父が大事なんだということがよく分かりました。

しかし死んでもまだ毒親から解放されることはないということがはっきりわかりました。

お葬式

父のお葬式は葬儀場で行いました。
皮肉なことに父が横になっている祭壇は父が作ったものでした。

お葬式では母が喪主をやるのかと思っていたら、兄が喪主を務めました。
兄が喪主をやることにより「供物・供花は私一人で子供一同という形で出せ」と母から言われました。
まだ産まれて3か月の娘。お金のかかる時期に一人ですべての供物・供花を出すことになりました。

約30万を一人で出しました。
娘をおんぶしてきてくれた方々に挨拶をし、お茶を配り、片づけをしながらの告別式でした。

葬儀場には親族が泊まれるように部屋がありましたが、近くに住む親族の方が寝ていて寝る場所すらありません。
仕方なく1時間半かけて自分の家に帰り、早朝にまた葬儀場に行く羽目になりました。

兄は喪主という立場にいながら何をするわけでもなく、ゲームをしており親族の前での挨拶もろくにできない
ありさまでした。


なんだかんだと葬儀は進み火葬が終わると葬儀場の方が骨だけになった父ののどぼとけの説明が始まりました。
「若くして亡くなった場合骨の形が崩れず、このようにのどぼとけが仏様が座ったように見える為のどぼとけという
名前がつけられまいた。」説明を聞きながら、55歳という若さで死んだ父は「きっとまだやりたいことがあったのではないか」とおもいました。